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市橋氏と市橋城址


9月25日放送

 承久の乱以降、石川光治は市橋庄の地頭職を与えられました。
市橋庄には厚見郡市橋(岐阜市)と池田郡市橋(池田町)の二つがあり、光治は厚見郡へ、弟の光重は池田へ来て、土地の名前をとって市橋姓を名乗ります。
12代目勝時の時、今尾城(海津市)の大名として国替えになり、400年近くにおよぶ市橋氏の統治は終わるのです。
 市橋城は検地帳に記載されている「おやかた屋敷」と考えられています。古老の多くは「蔵王下・野々分」が城跡だといいます。

 場所‥大垣市赤坂 法泉寺(市橋下総守長勝の菩提所)

 案内人‥観光ボランティアガイド 吉田稔さん
盛桝騒動

9月11日放送

 今から241年前の明和3年(1766年)の今日11日は、盛桝騒動の指導者が処刑された日なのです。その農民を供養した義民碑がここです。
 江戸時代の中頃、大垣藩に対し、揖斐郡・本巣市を中心に農民一揆が起きました。それまでの年貢は1俵は4斗ですが、込米といって運搬の途中にお米がこぼれるとか、検査する時に量が減ると言って3升余分に入れさせたのです。しかしさらに大垣藩は1斗桝に大盛りで4杯で1俵にせよと命じたのです。
 大盛りにすると1俵は4斗8升になり、実質には5升の増税になるのです。
明和2年大洪水のため米は取れず、「年貢を減らして欲しい」と藩に願い出るが受け入れられず、ついに農民達は一揆を起こすのです。

 場所‥池田町宮地 大津谷公園内

 案内人‥観光ボランティアガイド 今西龍雄さん
小作争議に取り組んだ
坪井秀(ひで)

8月28日放送
 
 明治中頃、農村では地主と小作人の対立による小作争議が活発になりました。 坪井秀は地主でありながら小作人たちの生活を救うために日夜農業政策を研究し、政府や県の役人に小作争議の実情を訴えたり、政治家と農業政策について議論しました。農民大会を開いたり、法律の制定・改正案を帝国議会へ提出するなど、農業問題の重要性を政府に認識させるよう大変な努力をした活動家でした。
竹林翁と言われた坪井伊助は父親です。

案内人‥観光ボランティアガイド 五十川直靖さん
猫の芸術家・河村目呂二

8月14日放送

 大正から昭和初期に活躍した猫の芸術家・河村目呂二(本名弘)は今から120年ほど前(明治19年)池田町願成寺に生まれました。
 目呂二はやんちゃできかん坊の反面、恥ずかしがり屋で人前で話すことが苦手な子どもでしたが、家族皆に愛されて育ちました。
 東京美術学校(現・東京芸術大学)を卒業後、雑誌への寄稿や、人形・絵画・彫塑の制作に猫を題材にしたものが多くなります。目呂二の猫好きは無類で、目呂二以上に猫好きのすの子夫人とともに猫のために自宅を建てたほどでした。ちなみに名前は、敬愛する竹久夢二と好きだった音楽・メロディをもじって「目呂二」としたそうです。 

 作品‥池田町教育委員会所蔵 「百仙百笑」

 案内人‥観光ボランティアガイド 原美千代さん 
古墳時代の人々(その1・2)


‥7月10日・24日放送

 池田町内には古墳が300基確認されています。その内ここ願成寺古墳群は、111基あり全国的に見ても異常なほど群集し、全て円墳で横穴式石室です。最大で直径20メートル、高さ3.7メートルのものから、ほとんど墳丘の確認ができないものまでさまざまです。
 古墳がある場所は、地形や分布から8グループに分けられ、墓域をつくり、グループの上下関係もあったようです。

 「むかし沓脱石がいる時、山へ行って拾ってきたものやったが、あれは古墳に使ってあった石かもしれんなあ‥。五輪石は漬物石にちょうど都合がよかったんじゃ‥」とは地区の古老の話ですが、今では考えられないことですね。

 場所‥池田町願成寺 大津谷公園南

 案内人‥観光ボランティアガイド 内田和子さん

観光ボランティアガイド連絡先
池田町役場産業課商工観光係  TEL 0585−45−3111 (内線 293・294)
                     E-mail yakuba@town.ikeda.gifu.jp
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