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青光庵跡


‥‥9月27日放送

 巡礼の接待所になっていた青光庵は、八幡村庄屋の竹中家が先祖供養のために建立した僧堂でした。夏には冷たい水、冬には温かい湯茶がふるまわれました。またわらぞうりや杖、うちわまで惜しみなく施されたということです。
 江戸時代になると農民の生活にもゆとりができ、信仰という理由でなら容易に旅に出ることが許されたこともあり西国三十三場霊場巡りも盛んになったようです。

 場所‥上八幡 神明神社の東

 案内人‥観光ボランティアガイド 原美千代さん
矢落ちの宮


‥‥9月13日放送

 天慶2(939)年 藤原秀郷に討たれた平将門の首は、口から火焔を吹き出し怨霊となって、都を目指し飛びたちました。南宮さんが放たれた矢が首を射抜き、首が落ちた場所が、荒尾の「御首神社」矢の通ったのが「矢道」矢を継いだから「矢剣神社」矢の落ちた所が「矢落ちの杜」だと伝えられています。
 一説には、東国から京都へ送られた塩漬けの首が、東の空へ向かって飛び、御首神社へ落とされたとも云われています。

 場所‥上八幡の東八幡神社境内

 案内人‥観光ボランティアガイド 石田幸一さん
巡礼の悲哀

‥‥8月23日放送

 西国33番観音霊場巡礼は大変な旅でした。約200里、何事もなくて30〜40日を要し病気、怪我、事件にあえば日数もさらにかかり、死に至ることもありました。
 巡礼に出るには、村役人の往来証文が必要で、それは体力、お金、暇、信用のある人にしか許されませんでした。この証文があれば手を貸す人がありましたが、お金も証文もない人は厄介払いされたようです。
 池田町田畑墓地には、最後の霊場を目前にして亡くなった巡礼が多く葬られています。この大変な巡礼の旅を終えたとき、心に湧き上がってくる仏様への感謝は、何物にもまさるものであったと思います。

 案内人‥観光ボランティアガイド 牧村文男さん
中八幡古墳


‥‥8月9日放送

 国道417号線沿いの池田交番の敷地に中八幡古墳の一部が残っています。
 この場所には、八幡神社がありましたが、昭和35年国道建設の折、神社を西の現在の位置に移す工事をしたとき、神殿の下から、馬具やよろい、刀剣が出て初めて古墳だということが分かりました。朝鮮製の初期の馬具も貴重な発見でした。昭和45年池田交番建設当時の発掘調査で全長43mの前方後円墳だったことが分かりました。今は、円墳の一部に円筒埴輪が残っているのみです。

 案内人‥観光ボランティアガイド 丸山文子さん
巡礼の宿

八幡の竹中家・林家
‥‥7月26日放送

 江戸時代、巡礼が西国33ヶ所を廻るには1〜2ヶ月かかりました。那智の青岸渡寺から最後の谷汲までは230里(約900km)、長い道のりをすべて歩き宿は相部屋それに道中、盗賊に出会ったり病気になるかもしれません。ひとり旅は、危険でしたからたいていの巡礼はグループを作って旅をしました。
 巡礼に宿を施す施行宿が池田町八幡にありました。庄屋の竹中家、西隣の林家です。竹中家には、年間2千〜3千人が泊まったという報告書が残っています。 ちなみに「ちちくれ地蔵」の話に出てくるおみねさんは、この竹中家の9代目竹中与惣治保常の奥さんです。

 案内人‥観光ボランティアガイド 今西龍雄さん
現妙山瑞泉寺


‥‥7月12日放送

 永禄4年(1561)稲葉忠道により開山した瑞泉寺の「瑞」は、おめでたいという意味、またこの辺りは、清水が湧く「泉」がたくさんあったところから名付けられたとか。現在お寺はなく、八幡保育園の2階に本尊(釈迦牟尼仏)が祀られています。 園庭の隅には、忠道のお墓があります。また村の女子教育に功績があった稲葉祖文の妻おときさんを偲ぶ「桃径先生頌徳碑」も木々の合間に建っています。

 場所は、八幡郵便局交差点を東へ20m 八幡保育園内

 案内人‥観光ボランティアガイド 山本仁司さん

観光ボランティアガイド連絡先
池田町役場産業課商工観光係  TEL 0585−45−3111 (内線 293・294)
                     E-mail yakuba@town.ikeda.gifu.jp
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